浮世絵で見る江戸・深川


7. 歌川広重「東都名所」より
洲崎弁財天境内全図
「江戸名所図会」より
州崎弁財天社

元禄バブルが生んだ
庶民に人気の景勝地

 前ページで紹介した“洲崎リゾート”のランドマーク的存在が、上のパノラマ図に描かれた「洲崎弁財天」である。これは現在の「洲崎神社」にあたるのだが、残念ながら空襲で焼失し、昭和43年に再建された今の境内に往事の面影は残っていない。なにしろ、幕末から明治にかけての開発で周囲を埋め立てられる前、ここは小さな島だったのだから。
 弁財天建立のいきさつは、元禄時代、三代将軍家光の側室にして綱吉の実母であった桂昌院が、大変信心深い人だったということが発端。儒学に傾倒し、親孝行こそ第一と考えていた綱吉は、母のためならと護持院(現護国寺)、持統院、寛永寺と、次々と巨大な寺院を建設した(文治政治の象徴として湯島の聖堂も建立)。ちなみに「洲崎弁天社」は江戸にもうひとつあった。場所は現在の品川で、同じような浮島に建てられていたため、混同されることが多い。
 この公共事業ラッシュが「元禄バブル」を引き起こし、紀伊国屋文左衛門を筆頭とする幾多のバブル商人を産み出す。「洲崎弁財天」も、桂昌院が崇敬していた江戸城中の紅葉山弁財天を、護持院隆力の進言によって元禄13年(1700年)に、洲崎の浮島に遷座したというもの。
 江戸名所図会の方(下)は、海側から見た景色。船遊びなどで眺める波打ち際の風景は、さぞ美しかったに違いない。
 しかし、その景勝も「今は幻」。大津波の後に幕府が建てた波除碑(津波警告の碑)が境内に残されており、往時を偲ぶわずかな手がかりとなっている。

ページトップへ戻る