浮世絵で見る江戸・深川

2. 歌川広重「名所江戸百景」
より「深川八まん山ひらき」
歌川房種「東都花見八景」
より「深川八幡境内」

風光明媚な江戸
のテーマパーク

 ところで、なぜ前述の「剣客商売」で富岡八幡が行楽地のように書かれているかということだが、実は左頁の絵に描かれているように、敷地内に広大かつ美しい庭園を擁してしたからである。
 この庭園、毎春の半月間のみ「山開き」として庭園を一般に公開していたようだ。絵に桜の木が描かれているのを見ても、江戸屈指の花見の名所であったことがうかがわれる。観光地としての人気に伴い、仲町通りと呼ばれた一の鳥居から表門までの3〜4町は繁華街として発展し、「両側、茶屋、料理屋軒を並べて、つねに弦楽の声絶えず」(江戸名所図会)という記述が残っている。富岡八幡一帯は、今で言うテーマパークのようなものであったかもしれない。
 ちなみに、絵の左手奥にある築山は、現在の数矢小西門に至る路地の右手にあったもの。これが「富士講」の「見立て富士」の一種なのか、富士に似せたただの築山なのかは不明だが、「御富士山」の名で戦後まで残っていた。

 また、富岡八幡を背景にした上の美人画を見ると牡丹(芍薬?)の花が描かれているが、江戸末期ごろから深川界隈では牡丹の栽培が盛んで、この名残りが現在でも「牡丹」という地名として残っている。
 実はこの庭は、富岡八幡の庭ではなく、別当寺であった永代寺の庭であったという説もある。そもそも「山開き」というのは仏教行事だからだ。それなら、なぜ浮世絵のタイトルが「永代寺山開き」ではなく「深川八幡山開き」となっているのかという疑問が残るが、お祭り好きの江戸っ子達にとっては、深川と言えば「江戸三大祭」のひとつである深川祭のイメージが強いため、仮に庭が寺の敷地内にあったとしても、寺の庭というイメージは持たなかったのではないか。

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