浮世絵で見る江戸・深川

5. 歌川広重「名所江戸百景」
より「深川州崎十万坪」

江戸庶民と幕府を
震撼させた大津波の傷跡

 地震の話ばかりで恐縮だが、東北大震災以来、地震と聞いて誰もが想起するのは、やはり津波のイメージだろう。地上にあるすべてのものを奪い去る津波の恐ろしさは、どこかで日本人のDNAに深く刻み込まれているように思う。
 寛政3年9月4日(1791年10月1日)、当時の洲崎一帯を突然の大津波が襲った。現代の堅牢な住宅でさえ跡形も無く消し去る津波の猛威の前には、当時の木と紙の家など抗う術も無い。あっという間に三百数十軒の人家と住人たちが飲み込まれた。
 この惨事を重く見た幕府は、津波に備えて被災地での家屋の再建を禁止。この一帯を買い上げ、新たに防波堤を築いた。この頃の行政府はなかなか対応が早かったようだ。今の政権に聞かせてやりたいが…。
 さて、広重屈指の傑作と賞されるこの絵に描かれているのは、鷹の目で見た、60年以上経過してもその深い爪あとを記す、恐ろしく荒涼とした冬の風景である。津波の後、洲崎から東は新田開発が進み、周辺の入り江は江戸市中の塵芥が捨てられて「夢の島」的な埋め立てが加速、深川から南がどんどん陸地になっていくのだが、反面人気(ひとけ)の無さが災いし、西側の砂村(現在の砂町)辺りは四谷怪談の名場面「戸板返し」の舞台になるほど寂しい場所だった。
 絵の左端に本来あるはずの観光名所、洲崎弁天が描かれていないのは、荒涼感を出すための広重の演出ともとれる。ちなみに、中央部に描かれているのは筑波山で、海にプカリと浮いている桶については、被災者を想起させる棺桶であるとか、埋め立て地ゆえに井戸が掘れなかった深川地区に、水を売りに来た水売りの桶であるといった、さまざまな解釈がある。

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