浮世絵で見る江戸・深川

11. 歌川豊国「東都深川八幡宮於社地成田不動尊開帳群集図」

そして不動
明王が残った…

 さて、ここまできて「あれれ、深川の名所がひとつ抜けてるじゃないか」と思われた方もいることだろう。そう、深川不動堂である。あれだけ有名な建物が浮世絵に描かれていないというのは不思議と言えば不思議。しかし、深川不動堂が今のような形になったのは明治以降の話。従って浮世絵に描かれていなくても別に不思議ではないのだが、不動堂そのものは元禄年間から存在していた。実は永代寺の中にあったのである。
 事の始まりはこうである。歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことで、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂のルーツ。
 要するに、わざわざ成田山まで行かなくとも深川を参拝すれば同じ意味になるということ。江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回は葛飾燈明寺、それを以外は全て深川永代寺が会場となった。この絵に描かれているのは安政3年、最後の出開帳ということになる。
 では、その後永代寺はどうなったのか? 明治維新後、神仏分離令により廃寺となってしまい、境内は深川公園として生まれ変わった。しかし不動尊信仰はその後も続いたため、明治11年(1878年)、成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが認められ、明治14年(1881年)には本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れ、現在に至る。
 深川不動の参道に建つ永代寺は、門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年(1896年)に再興されたもの。グッと規模が縮小されながらも生き残った姿である。加えて、意外に知られていないが「門前仲町」という地名は、不動堂の門前でも富岡八幡の門前でもなく「永代寺の門前町」という意味。江戸時代には不動堂は永代寺の一部に過ぎなかったのである。(おわり)

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