浮世絵で見る江戸・深川

9. 井上安治「深川仙台堀」

仙台藩士たちの
ため息が聞こえる

 木場の北側にある運河が仙台堀川である。当時の交通網・運輸網はすべて水路であったから、戦後、主要な水路の上に首都高速を造ったのは実に合理的な発想であった(その分、美しい景観も失われてしまったが)。
 堀と川とは同義語であるから、仙台堀川というのは言葉としては変なのだが、もともとは江戸整備のために駆り出された伊達政宗が家康に直接命じられ、当初は江戸城防衛のための堀として(現在の神田川の一部)寛永年間に竣工したもの。この大工事の背景には、仙台藩の財力をできるだけ削いでおきたいという家康の狙いもあり、この後も運河開削工事は代々の仙台藩主に課せられることになる。有名な伊達騒動の原因となった伊達綱宗の遊興三昧?も、工事の重圧が原因という説もある。
 深川の仙台堀は純粋な運河で、近くの清澄1丁目に仙台藩松平陸奥守の蔵屋敷があったためその名がついたもの。宮城は当時も米の一大供給地で、特に仙台米は「本石米(ほんごくまい)」と呼ばれ、仙台藩の米蔵は江戸でも最大級の規模を誇っていた。
 この絵が描かれた明治時代以降、仙台堀は横十間川より上流まで延長されたが、昭和に入って工業地帯として発達した結果、地下水組み上げによる激しい地盤沈下がおこり、水害が頻発するようになった。
 この治水対策のため昭和57年(1982年)に既に運河としての利用のなかった小名木川から大横川に交差するまでの区間を埋め立てて整備したのが、現在の仙台堀川親水公園である。そういう意味で、この絵に描かれた仙台堀ののどかな風景は、かつてベニスのような美しい運河都市であった江戸の面影を今に伝えている。

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